いたるところに中心がある
タイトルは澁澤龍彦「マルジナリア(asin:4828830634)」より引用。原典はニーチェの「ツァラトゥストラ」だそうで。(未読)
澁澤氏は、
たとえば中心と周辺といったような、二元的あるいは対極的な構造を考えることを私はあまり好まない。
で、タイトルのような考え方こそ、自分にとっていちばん好ましいと書いている。
そして、
永遠のあゆむ道は曲がっているのだ。
という言葉でこのエッセイを締めている。
さて、このところ岩波で文庫化されたボルヘスの「続審問」をぽつぽつと読んでいるのだが、ここにもこのフレーズが出て来た。パスカルについてのエッセイで。
「パスカルの球体」では、世界における歴史の中で、誰がこのフレーズについて言及したかを歴史順に並べている。このエッセイの主題はパスカルなので、ニーチェにまでは辿り着いていないのだが。まあ、いつ誰が言ったかというのはここではそれ程重要ではない。ボルヘスが言いたかったのは、
世界の歴史はことによると、少数の隠喩のさまざまな抑揚の歴史なのかもしれない。
という事である。ある人によってはこの隠喩が「解放」に向かっているし、パスカルのように、
「……恐ろしい球体である。その中心はいたるところにあり、周辺はどこにもない」。
と、絶望感にも似た叫びの中で訴えられている。
……自分がどういうきっかけでこのフレーズに固執し出したのかについては、いまいちよく分からないんだけど、多分、中心から外れたものを追いかけようとしても、それに囚われればそこが中心になって、いわばその嗜好の典型にはまってしまうという図式が見えた時に、この、「中心はいたるところにあり、周辺はどこにもない」というフレーズがぴったりと当てはまったのだと思う。
あるいは、以前のエントリーである「鍵」を書いていた時に、中心軸である鍵からぐるっと右回り、または左回りにひねる行為が、まるで空間全体をひねり回すようなイメージに拡大していったので、ああ、「中心はいたるところにある」と、思ったのかもしれない。
ところで澁澤さんの方に戻るけど、この、「永遠のあゆむ道は曲がっているのだ。」は、どこからやって来た言葉なのだろう?