この世はレースのようにやわらかい

音楽ネタから始まったのですが、最近は美術、はたまた手芸等、特に制限は設けず細々と続けています。

生誕100年記念 瑛九展

埼玉県立近代美術館うらわ美術館
※2館同時開催


今年は、岡本太郎、瑛九、藤牧義夫南桂子といった方々の生誕100年展が開催されている。
みんな日野原先生と同い年って事なのか。それはビックリ。


今回、たくさんの瑛九作品を目にすることが出来て嬉しかったのだが、参考出品されていた古賀春江三岸好太郎などの絵の方にくぎ付けになってしまった瞬間もあった。
とは言っても、フォトデッサンや、最後の方に展示されていた巨大な点描画には圧倒された。そもそも、この点描画を見て瑛九に興味を持ったので。

エスペラントというキーワード

近代美術館の方の展示室入口付近に、彼の遺した言葉がでっかくパネルや壁に掲げられているのを見た時は、似たような展示方法を試みていたウメサオタダオ展*1を連想させた。
梅棹忠夫と瑛九を直接結び付けるキーワードは、エスペラント
梅棹忠夫は1920年生まれだから、世代的にはちょっとズレてるんだけど。
瑛九展でもウメサオタダオ展でも、各々独自に発行していた会報誌が展示されていて、印象に残った。どちらも凝ったデザインのロゴを配していて、簡素な、いかにもミニコミっぽい体裁のものだった。
それらを見ているうちに何故か脳裏に浮かんだのが、ボン書店の鳥羽茂が発行していた、一連の本のデザインだった。
もちろん、鳥羽茂の本の方が、ぐっと瀟洒なものだったが。でも、こだわりのベクトルは同じ方向だったんじゃないかなぁ…、と、思ったのだ。
鳥羽茂とエスペラントとの接点は確認出来ない。しかし、梅棹忠夫の「知的生産の技術 (岩波新書)」によると、岡山という土地は、昔からローマ字運動やエスペラント運動などが盛んで、その種の言語改良運動のアバンギャルドをたくさん輩出したところだったそうで。もしかすると岡山で学生時代を過ごしたという鳥羽茂は、このうねりの端っこぐらいはつかんでいたかもしれない。と、想像してみた。

さらに同世代人と照らし合わせてみる

図録を買いそびれてしまったので、図書館にあった「瑛九 評伝と作品」(山田光春著)を取り寄せて読み出したんだけど、ヴォリュームがあって読み切れず。とうとう返却期限が来てしまった。
この本、かなり年季が入っていて、中に傍線がいっぱい引いてあった。とりあえずそこの部分を拾い読みして返す事に。
その中で気になった所を一ヶ所だけ書き出しておく。

版画。ここに一つの表現がある。金属的曲線、直線、ニユウアンスを単純明快に表現する技術がある。なよなよしたブラッシュの作りだす一つの面と一つの線と、三角のみ或は小刀の作りだす一つのマッスと一つの線とを比較してみることを現代人に強要する義務を感ずる私である。
近代風景はなよなよしたブラッシュのつくりだす線ではない。ブラッシュの作りだすマッスでは表現されないメカニズムがある。それをはたし得るものの一つの絵画技術で版画はあり得るといったら、眼を廻す人がいるかも知れない。しかり、現代版画界のお歴々のオナニスティッシュなる態度のもたらす非版画的なるものを正当な版画であると思っていらっしゃる方々には。(後略)

…書いてから気づいたんだけど、この部分はチラシにも載っていました。
これを読んで真っ先に思い出したのは、藤牧義夫の当時最先端であった建築物を描いた風景版画だった。
この文章を書いたのは、瑛九がまだ10代の頃だったようだ。
そういえば二人とも10代半ばで上京していた。
おそらく同時期に、東京の風景を同じ感覚でキャッチしてたんだろうなと思わせる記述だった。


あとやっぱり、あらゆる表現方法を模索しながらも、平面に油絵で描くというスタイルを捨てなかったという点には、岡本太郎と共通するものを感じた。


瑛九さんがもうちょっと長生きしてたら、プラネタリウムみたいなドーム型のスクリーンに、自身の作品を投映して公開するような事をやっていたかも。
あの点描画や丸をいっぱい描いた抽象画は、四角いキャンバス内に収まっているのが窮屈そうに見えたので。
頭上で、あの点々や丸がキラキラとまばたいて見えたりしたらさぞかし綺麗だろうな。

*1:来年あたり東京でも開催されるみたいです。