浅井忠の京都遺産ー京都工芸繊維大学 美術工芸コレクション
本日から泉屋博古館分館で始まったこの特別企画展の、一般公開に先駆けて行われたブロガー内覧会に参加して来ました。
※画像は特別な許可を得て撮影しています。
浅井忠(1856-1907)は、明治時代の日本洋画壇で活躍した画家であり、教育者でもあった。
そうか。この人って幕末生まれだったんだ。明治生まれかと思っていた。
西洋画家のイメージが強かったので、今回の展覧会で教育指導者、図案家としても活躍していた事を知り、驚いた。
浅井忠といえば、昨年三菱一号館美術館で開催された、ルノワールと梅原龍三郎展で見た、浅井忠の大津絵コレクションを思い出す。
西洋画の発展に尽力した人物が、何故大津絵を描くに至ったのか、その経緯に大いに興味をそそられた。
この展覧会は、浅井忠の足跡を辿るのがテーマなので、この疑問にドンピシャに応えてくれている。
それはパリから始まった ― パリ万国博覧会
1900年に開催されたパリ万国博覧会に、当時東京美術学校教授としてフランスに留学中だった浅井忠は、洋画研究・視察のために足を運んだ。
そこで目にした装飾芸術、アール・ヌーヴォーの作品群に衝撃を受ける。
それまでの浅井は、黒田清輝のような当時のフランスでは最先端だった、自然光を描き出す「外光派」には目もくれず、ゴリゴリのアカデミックな絵を描いていた。
当時はそんな古臭い画風を「脂(やに)派」と呼んだのだという。知らなかった~!
アルフォンス・ミュシャ、マニュエル・オラジのポスター。
アール・ヌーヴォーに洗礼を受けた彼はデザインに強い関心を抱くようになり、こういったポスターをデザインの資料として日本に持ち帰ってくるのだ。
よく見るとこれらのポスターには折り目がついている。運びやすい大きさに畳んで、持ち帰って来た現物だという事がよく分かる。
ルイス・C.ティファニーのガラス工芸作品群。
全体的に小ぶりなのは、日本に持ち帰る事を前提に選んだから。当時は船旅だったから、どうしたって重量が制限される。
浅井忠『武士山狩図』(1905年)
日本に戻ってからは京都に移り住み、京都高等工芸学校を設立して、そこの図案科教授として教鞭を執っていた浅井だが、洋画と決別していたわけではない。
このように、当時の宮内省から依頼を受けた、大画面の油彩画も手がけていた。
しかし、写実的に描けという注文だったせいか、既に装飾的嗜好に向かっていた彼にとってこの仕事はストレスだったようで、作品が完成した2年後には病死してしまう。
この作品のために入念に描かれたスケッチも展示されている。馬のスケッチを見ると最近はダ・ヴィンチの馬デッサンを連想してしまう。
馬にまたがった人物は最初モデルがいたのだが、余りの忍耐的激務に嫌気が差し、途中で逃げ出してしまったらしい。そこで、工芸学校に勤務していた用務員さんに代わりを務めて貰って無事完成したとか。
ううむ、ジャコメッティと矢内原伊作のように、芸術家とモデルとの幸福的関係を築くっていうのは、なかなか難しいものなんだなーというのを、このエピソードを聞いてしみじみと感じた。
図案家浅井忠と京都工芸。
展示室IIに向かうと、浅井忠の京都での仕事ぶりが展開されている。
浅井忠『鬼ヶ島』
浅井忠図案 黙語会編『黙語図案集』
黙語とは浅井忠の画号。京都時代の彼は日本画を数多く描いた。
図案には日本独自の大津絵、琳派の様式を果敢に取り入れ、それらをよりモダンに解釈していった。
図案集の中身はこんな感じ。
浅井忠図案 迎田秋悦製作『七福神蒔絵菓子器』
この辺の図案はかなり面白い。
自分的ハイライトはこの辺だったかな。
内覧会の解説の中で興味深かったのは釉薬の話だった。エミール・ミュラーのマットな釉薬の作品とか、ティファニーやジョルナイの螺鈿みたいな光沢を放つ釉薬の作品とか。そう言われてハッキリと区別がつくように、彼らは日本に持ち帰る作品を選定していたのかなと。そして、陶芸作品はそうやって釉薬の種類を意識して見ると、より面白く見れるようになるのだなという事に気が付いた。
あと、これは東京で見ているからなのかもしれないけど、展示室全体から関西テイストが漂っていた。関西の美意識は、関東のそれとはどこか違う。きらびやかだけど、しっとりと落ち着いている。そういうのが感じられたのも収穫だった。
まだまだ見どころはいっぱいあります。とにかくアール・ヌーヴォー時代に興味のある方は、是非見に行く事をお勧めします。
開催概要
会期:9月9日(土)~10月13日(日)
開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日(9/18・10/9は開館。9/19・10/10は休館)