この世はレースのようにやわらかい

音楽ネタから始まったのですが、最近は美術、はたまた手芸等、特に制限は設けず細々と続けています。

塩谷定好作品展

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写真歴史博物館 企画写真展 -知られざる日本芸術写真のパイオニア- 塩谷定好作品展 | フジフイルムスクエア(FUJIFILM SQUARE)

かの植田正治をして『神様に近い存在』と言わしめた、芸術写真の先駆者塩谷定好(1899-1988)の写真展が開催されている。

5月30日(土)には、孫で塩谷定好研究家でもある塩谷晋氏のギャラリートークが開催されたので、聞きに行って来た。 

ここでは、その時のお話で印象に残った事などを書いてみます。

 

今回展示されている作品は、地元鳥取の風景等を撮影したもので、今から80年程前に写真展で発表した後、一度も展示された事がなかったらしい。

塩谷氏によると、初公開時に見ていた人で御存命の方は、もういらっしゃらないのではないか?との事。なので今回の展示作品は初公開に近いものなのだ。

そっか〜、昭和の始めの事柄でもそうなっちゃうんだ!これを聞いてちょっとショックを受けた。昭和は遠くなりにけり。

 

 写真家王国鳥取

塩谷定好が生涯を送った鳥取という地は、非常に写真が盛んな地域だったようだ。

それは、多分戦前に集計された全国写真家(愛好家?)の分布図に、ハッキリと現れていた。
それによると、全国ベスト5 の上位は、東京大阪等の大都市が順当に占めていたのに、5位には何と鳥取がランクインしていたのだ。
その数は515名。因みにお隣の島根は48名だったようだ。
この差はやはり、塩谷定好の存在に依るものが大きかったのではないか。
当時、彼は写真同好会のようなものを結成して、写真の普及に尽力していたようだ。

彼の作品に見られる、独特のボワっとしたピント合わせの写真は、所謂『ベス単のフード外し』によるもの。
これは日本独自に発達した技法のようで、言わば、『写真による朦朧体』なのか。
被写体の大半は地元で撮られたものだろうし、撮影方法、そしてプリント技術も、他ではあんまり見られない独特のセピア色を駆使している。それは『塩谷セピア』と呼ばれていて、誰も再現する事が不可能なのだ。

このように、塩谷定好の写真のイメージは、ローカリゼーションを濃厚に感じるのだが、自分が塩谷定好の写真を知ったのは、10代の頃、オン・サンデーズで見つけた、輸入物の数枚のポストカードでだった。
それは、1920年代のモダニズムで構築された日本の風景でありながら、ドイツ(当時は西ドイツ!)でプリントされたものだったのだ。
これを見た時、てっきりこの人は外国に渡って活動した人なのかと思い込んでいた。
しかし、当時数少ない情報で何とか調べたところ、ずっと鳥取で活動していた事を知り、改めて衝撃を受ける。外国どころか、東京飛ばしでもこれだけモダンな世界が表現出来るのかと、目から鱗だった。
植田正治もそうだったので、鳥取という地には何かあると思うようになった。
それ以来、塩谷定好の出身地赤碕町を聖地の様に捉え、いつか訪れようと思い始めて早数十年。未だ実現せず…。その間に赤碕町は琴浦町に町名変更されちゃったし、

teiko.jp

この様に、昨年遂に生家を改装した写真記念館がオープンしたし。いやまさか記念館まで出来るとは…。行かなきゃ!


彼は生涯に渡って写真を撮り続け、千点以上の作品を残したらしい。もっと大規模な回顧展が開催される事をこの先期待したい。

作品展は7月31日(金)迄開催中。