この世はレースのようにやわらかい

音楽ネタから始まったのですが、最近は美術、はたまた手芸等、特に制限は設けず細々と続けています。

歌人 野原水嶺について。

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数年前から草森紳一の本を読み出しているので、自然にこちらのブログをチェックするようになったのだが、

d.hatena.ne.jp

その中のこの記事を読んだ時は、目が釘付けになった。
 
野原水嶺(1900-1983)は、帯広で活躍していた歌人岐阜県出身で19歳の時に父親と共に北海道へ移住。
開拓団として入植したのだが、本人は教員の職に就く。

草森紳一との繋がりは、昭和26年に下音更中学校教諭として赴任した事によるもの。教師と生徒の関係だったのだ。
草森紳一は、当時から文才に長けていたようで、野原水嶺自身が発刊した短歌雑誌『辛夷』に、短歌やエッセイ等を掲載していたようだ。それは、草森自身が大学を卒業するまで続く。


何故わたしが野原水嶺の名前に反応したのかと言うと、実は自分の親戚筋に繋がる人物だからなのだ。
しかし、生前お目にかかる機会は一度もなかった。
もう少し突っ込んで言うとその存在は、こちらの身内内ではスルーされていた。
短歌を詠む人は愛に情熱を捧げる人が多いのではないかと思うのだが、水嶺さんも例外ではなかった。


草森紳一とのこうした関わりを知ったのがきっかけで、野原水嶺の本を読んでみたくなったのだが、なかなか手にする機会が得られなかった。
しかし、最近著書をお借りする機会に恵まれたので、ぼちぼちと読み出している。

代表作とされているのが『雫二つ』。
雫二つあひ寄りふくれ極限にいたるとみればひらめきて消ゆ

歌集『花序』(昭和27年)より。

「二つ」「あひ寄り」「ふくれ」という言葉から、寄り添う二人を描いたように解釈されているのだろうけど、わたしはもともと、短歌をあんまり愛中心に捉えるのを好まなかった。その為、短歌自体を敬遠していた。

でもこの歌は、水滴が流れていく瞬間や、あたりの冷たい空気や、時間の経過など、とても映像的で、リアルな世界を、それこそ極限までミニマルに表現していると思った。

ずっと北海道の片田舎で創作に励んでいた人だったのだけど、生まれた年代から、1920年代のモダニズムにも何処かで共鳴していたのかもなと推測する。

ご本人はスラッと背の高い、なかなかの紳士だったようなので。


まだまだ、短歌自体に触れ出したばかりなので全然馴染んでないのですが、しばらくは読み続けようと思っています。