この世はレースのようにやわらかい

音楽ネタから始まったのですが、最近は美術、はたまた手芸等、特に制限は設けず細々と続けています。

鏡の中のマヤ・デレン / マヤ・デレン全映画作品

@シアター・イメージフォーラム

マヤ・デレンのドキュメンタリー映画と全作品が上映されているので見て来た。


実を言うと、彼女の存在を知ったのは去年の話なのであった。
あの、窓ガラスに手を当てて、外を眺めているポートレートは昔から見覚えがあって、ずっと印象に残っていたのだけれども、これが誰の肖像なのか、ずっと分からないままだった。
去年、ネットでジャン・コクトーの事を調べていた時に、フトこのポートレートに出くわした。マヤ・デレン…。全く聞き覚えのない名前だった。どうして今まで知らないまま過ごせていたんだろう…。その事自体が不思議だった。


最初の作品である「午後の網目」では、鏡を効果的に使っていたり、パッと電話がナイフに置き替わるトリックが使われていたり、次作の「陸地にて」ではフィルムの逆回しがあったりと、コクトー映画からの影響を感じさせる映像が出て来たりもするのだが、わたしの目を引いたのは、彼女自身と、映画に登場する女性達のファッションだった。撮られてから60年以上も経過しているとは思えない程、古びていないのだ。ゆったりとしていて、どこも締め付けていない。でも、見た目はキチッとしている。現代のカジュアルのお手本とも言える服装だ。彼女達はこのファッションに身を委ね、自由に舞っている。
ドキュメンタリーの中でも、彼女のファッションに関する証言があった。それによると、デレンは、そのエキゾチックな風貌に合う、フォークロアの服も1940年代頃から着ていたらしい。実際にフォークロアが流行り出すのは、彼女の死後である1960年代後半のヒッピー・ムーヴメントからだ。


このドキュメンタリー映画は2001年に制作された。多分、今撮らないとデレンを直接知る人がいなくなり、手遅れになってしまうと思ったからであろう。中でもデレンに決定的な影響を与えた、アフロ=カビリアン・ダンスの振付師であり、人類学者でもあったキャサリン・ダンハムの証言は貴重である。彼女は2006年に他界している。


更に、映画にはその当時のハイチの映像も出て来る。つい先だっての大地震で壊滅的な被害を受けた地域だ。これも、図らずも貴重な映像になってしまった。デレンは、ヴードゥー教のトランス儀礼を撮る為に、1947〜51年にかけて、ハイチに何度も足を運んでいた。その時に撮られたフィルムは15,000フィートにも及ぶという。この映画が今日本で公開されているのは、単なる偶然なのだろうか?


映画では、マヤ・デレンの貴重な肉声も聞く事が出来る。「自分は映像という手段を得て、初めて言いたい事を表現する事が出来た。」とか、「女性は変化を受け入れながら生きる事が出来る。」とか、セリフは間違ってるけど、こんなニュアンスの事を理路整然と喋っていた。ちょっと彼女自身の著作を読んでみたくなった。超人伝説を持つ彼女だけれども、冷静さも同時に持ち合わせていた人だったんだろうな。ただ、肉体と精神のバランスは危うかったと思うけど。晩年はクスリに頼らざるを得なかったようだし。やっぱり強烈な人生だったのね。


上映が終わって外に出たら、次のレイトショーを待つ若い女の子達が群がっていた。今迄映画を見ていた客層と余りにも違うので、そのギャップに驚いてしまった。映画の中のマヤ・デレンの強烈な存在感も、現実の女の子達のパワーの前にはすっかり霞んでしまった。そんなショボーンとした感想を抱えながら、彼女達の群れをかき分けて、映画館を後にしたのであった。


(追記)

マジでこれを書いた後に思い出した。何で忘れたままでいられたんだろう……
まあ、結局シングル買わなかったしね…