この世はレースのようにやわらかい

音楽ネタから始まったのですが、最近は美術、はたまた手芸等、特に制限は設けず細々と続けています。

Crumbling The Antiseptic Beauty(その2)

id:almondeyed:20040101#p1の続き。
SIDE A

  1. EVERGREEN DAZED(眩惑)
  2. FORTUNE(フォーチュン)
  3. BIRDMEN(バードメン)

SIDE B

  1. CATHEDRAL(大聖堂にて)
  2. I WORSHIP THE SUN(太陽神)
  3. TEMPLEROY(炎の神殿)


このアルバムを初めて聴いたのは1984年の3月頃でした。
この頃にはもう、ネオ・アコースティックと呼ばれている人達の音源は、ほぼ出揃っていました。
個人的には1982年当時に受けた、トレイシー・ソーンに代表されるアコースティックな音へのショックは相当なものでした。それまではいわゆる電子音が好きで*1アコースティックギターものなんて、ニューミュージックのイメージがあったからバカにしてたのに、トレイシー・ソーンやベン・ワットの音を聴いた時は、それまでの価値観がひっくり返されまして、というか、無機質な電子音楽がアコギにバトンタッチしたようなクールさが彼らの音楽にはありまして、すごい!と思いました。


フェルトも、そういう感じがしたのです。
彼らの音はエレキギターで、バンドとしての緊張感がピリピリと張り詰めていましたが、BIRDMENみたいな単調な反復リズムなんてもうたまらん!といった感じの聴き方をしてました。


1stは多分、先にテレビジョンやベルベット・アンダーグラウンドを聴いていたかどうかが、評価の肝になると思うんですが、私はどちらも聴いていませんでした。それでこんな電子音寄りな解釈をしながら聴いていたわけなのですが。


ラストのTEMPLEROYは、それまでのつぶやくようなヴォーカルとは違い、遠くの方でですがシャウトしています。ここで彼らの青春時代が終わろうとしているかのような、何かを諦めざるを得ない境地に達した嘆きのようにも聞こえ、胸を締め付けられます。
この曲は1番、ポストパンクのにおいがします。


言ってしまえば彼らは、これをリリースした1982年の時点で、彼らの青春時代は終わったと宣言していたわけで、それを更に約2年遅れでやっと聴いたこっちとしちゃあもう、すっかり置いてきぼりをくわされてしまった気分でした。ジャケットに写っている彼も今はすっかり大人になって、もうこんな表情は見せないのかもな、とか。デビューアルバムなのに、強く感じ取れるのは喪失感ばかりでした。リアルタイムで聴いていればこの喪失感もちょっとは軽減されてたかもしれない、とも考えてしまうわけで。
そう、1982年と1984年では、時代の空気感も違っていたのです。


フェルトのインタビューなんて、リアルタイムでは全くといっていい程目にしなかったので、当時彼らが何を考えていたのか全く知らなかったんですが、今ネットにUPされている当時のインタビューを拾い読みすると、ローレンスは、自分は16歳頃が1番良かったというような発言をしていまして、あーやっぱりそうだったのかー、なんて、1人勝手に納得してたりするのですが。
まあこの発言も、ローレンス独特のジョークなのかもしれません。


で、1stで受けた喪失感に更に追い討ちをかけるように、既に私の手元には2ndもあったのです。実は2枚同時に買ったのでした。(続く)

*1:私にとっては冨田勲やジャン・ミッシェル・ジャールが原点。YMOは第2次電子音ショックでした。